【3月】弥生(やよい)~桜に幕~
旧暦の由来
冬が終わって初春になり、草木がいっそう(弥)生い茂る(生)ことから「弥生(やよい)」と言われるようになりました。
札の解説
「幕」は満開の桜の下に描かれた幔幕(まんまく)を示し、花見席会場を表現しています。また、札の「みよしの」は桜で有名な奈良にある吉野山を敬った言葉を指していてます。
ことばあそび
幔幕(まんまく)の「まん」と桜の満開(まんかい)の「まん」が韻を踏んでいます。
さくらの「さ」の文字が3(さん)なので、3月札だと覚えましょう。
関連知識
吉野山は奈良県吉野郡吉野町にある山で、毎年大勢の観光客が桜の花見に訪れることで有名です。そんな桜は、地域ごとに下千本、中千本、上千本、奥千本と、異なる呼ばれ方をしています。かつて、太閤秀吉(豊臣秀吉)がその美しき絶景を一目見ようと花見にやってきたとされる吉野山。歴史的背景を交えながら少し奥まって学びたいと思います。
吉野山の自然 ~桜はすべてヤマザクラ?~?
ヒマラヤ原産でバラ科サクラ属の桜は、日本においては主に、山野に自生する「山桜」と、品種改良でつくられた「里桜」に二分されます。吉野山の桜は野生種の「山桜」で、見た目は「ソメイヨシノ」そっくりですが、開花時に花と同時に葉が出て、散る時期が個体ごとに異なるという特徴があります。
一方の里桜であるソメイヨシノは日本の植樹の8割を占める代表的桜です。名前の由来は東京都豊島区の染井村の植木屋が開発した品種であるからで、自力で繁殖できないため接ぎ木によって増やされました。つまり、日本の公園でよく見かける桜はすべてクローンだということになり、開花時期が同じなので、一斉に咲いて一斉に散るようです。ちなみに、ソメイヨシノはオオシマザクラとエドヒガンザクラをかけ合わせた交配種だと言われています。
吉野山の歴史① ~吉野の「よし」は景観良しの「よし」~
歴史上で吉野山が登場する有名な出来事は672年の壬申の乱です。この争乱は天智天皇(中大兄皇子)が弟の大海人皇子を皇太子にしようとしますが、彼は何かしらの企み・陰謀を感じ、辞退して吉野に出家してしまいます。その後、直系の息子である大友皇子が皇太子になり、天智天皇死去後に即位するのですが、その皇位継承に不満を感じた皇族・豪族が反天智派と大友皇子派に分かれて内乱を起こし、反天智派が挙兵した大海人皇子につくことになります。これがいわゆる壬申の乱です。結果、大友皇子は敗れて首を吊って自害し、大海人皇子が天武天皇として即位することになります。その天武天皇が、吉野の吉野宮で、息子たちに「力を合わせてお互い助け合おう」と誓い合った時に詠んだのが次の歌です。
よきひとの よしとよくみて よしとひし
よしのよくみて よきひとよくみて ―「万葉集」天武天皇―
立派で偉大な人たちは、「なんて素晴らしく美しいんだ」と思って、この地を吉(よし)野と名付けた。おまえたちよ、よく見よ。かつての偉人たちはこの吉野の地をよく見ていたんだから。
吉野山の歴史② ~あなただけを見ています/静御前~
もう一つの吉野山が登場する歴史上の出来事は、かの有名な義経の妾、静御前に関わることです。兄頼朝の激しい追求から逃れるために、静御前、弁慶とともに吉野山に身を隠した源義経でしたが、女性である静御前は目立ってしまうため、この地で二人離れ離れになります。その直後、静御前は頼朝の追手に捕まり鎌倉へ護送されますが、鎌倉の地で頼朝に「義経の居場所を言え」と詰問されても、彼女は「何も知らない」としか言いませんでした。その後、舞を命じられた彼女が、舞いながら詠んだ歌が次の句です。
吉野山の峰の白雪をかき分けながら山中深くへと姿を消していったあの人の(義経)の跡が恋しく思える。
【解釈】
義経のことをひたむきに一途に思う、静御前の恋慕の情を感じる歌です。頼朝と政子夫妻の目前でこのような和歌を詠ずるということは、自分の身を危険にさらすというリスクがあります。それなのに、「私には義経がいるから頼朝の妾になどなりません」と強く自己主張する彼女には、並ならぬ意志と思いがあるように感じました。
▼あの偉人に恋できたらいいですねぇ▼
まとめ
花札(3月)の「みよしの」から派生して、日本の桜の歴史や有名な壬申の乱、静御前の悲劇のエピソードまで登場することになりました。知識というのは、こういう風に結びついて浮かび上がり強固なものになるから面白いのかもしれませんね。